2009年6月16日火曜日

死ぬゲーム、死なないゲーム

 例の「桜井政博のゲームについて思うこと」シリーズの


第2段を読んで再び考えさせられ、驚かされた。



今回のネタは「FF」


かの有名な「ファイナルファンタジー」シリーズについて。


略し方は、FFかファイファンかなんて話題ではないです。


俺は昔「ファイナルファイト」と被るからファイファンと読んでたけども。


んなことはどうでもいいんだよ。



読んだ記事のタイトルは「ゲームは、戦うことを避けられないのか?」


桜井さんが、植松伸夫さんと野島一成さんと


メールをした内容について書かれていました。


一応、桜井さんは「カービィ」シリーズの生みの親


植松さんは「FF」シリーズの作曲家


野島さんは「FF VII VIII X」のシナリオライターです。


野島さんは、名前は聞いたことある程度だったんですが


7、8、10のシナリオを担当していたんですね。


なんとなく納得しちゃいましたw



この記事を読んで驚いたのが、植松さんのコメント。


「ゲームは、戦うことを避けられないのか?」ということに対して


植松さんは「FF」の1作目からずっと意識していたらしく


HPが0になったときに死ぬのが嫌だったとのこと。


そのため、それ以降の「FF」は戦闘不能ということになったそうです。


それでも、武器を取って戦うという世界があまり好きではなく


植松さん本人の音楽とゲームとのズレが生じてきているとのこと。


「バトルのあるゲームにはもう参加しない」と言おうか迷っているほどだとか。



確かに「FF」では戦闘不能、「DQ」では死ですよね。


でも、そうなるとおかしなこともあるんですよね。


「FF」シリーズで登場する黒魔法「デス」


敵が使ってくる「死の宣告」


これらは確実に戦闘不能ではなく死を表してますよね。


それでも、フェニックスの尾やレイズで復活させることができます。


また、「FF」シリーズではお馴染みの仲間が死ぬシーン。


コレらはなぜか、復活させることができません。


ぶっちゃけ言うと、製作者側がそのキャラクターを殺したいからに


他ならないんでしょうけども。



野島さんは植松さんとは正反対で


戦闘不能というシステムが気に入らなかったらしいです。


戦闘不能が死を軽くしてしまった一因だとのこと。



俺もRPGに関しては人が死ぬ作品はあまり好きではないかもしれない。


ただ、死ぬのが仲間だった場合。


仲間が死ぬゲームって本当に嫌なんですよね。


ストーリー的にも、ゲーム的にも。


人を殺して感動を


っていうのはすごく簡単な手法です。


死ぬ前にプレイヤーと親しげにしておいて、いざというときに死んでもらう。


あとは感動的な音楽を流し、感動的なセリフをキャラクターに喋らせる。


コレで感動シーンの出来上がりです。



どんな理由があろうと、仲間が死ぬのは誰も得するとは思えません。


プレイヤーも悲しい気分になります。


最悪、そこでプレイヤーがゲームをやめてしまう事だって十分ありえます。


それでも、一つのジャンルとして必要ではあるのかもしれません。


やはり、そういった作品が好きな人がいるのも事実ですし。



ゲーム的にも、せっかく育てたキャラクターがもう使えないとなると


やっぱり嫌な気分になるんですよね。


それがお気に入りのキャラクターだったりするとなおさら。



植松さんは坂口さんと共に「FF」という世界を創ってきた人です。


この二人は一部では、マリオブラザーズなんて呼ばれてたり呼ばれてなかったり。


どっちがマリオでどっちがルイージかはいいとして。


坂口さんが手がけたほとんど全ての作品の音楽を作ってきました。


もちろん「FF」シリーズも。


坂口さんが「FF」から離れ、植松さんも離れようとしています。


「FF」シリーズはもうそろそろ終焉を迎えても良いんではないでしょうか。


なんて事を思ったりします。


やっぱり「FF」の最後の良心は植松さんによる音楽なんですよね。



俺は正直、どうなのか分かりません。


「Postal2」や「GTA」シリーズのような


戦闘どころか、一般人を好きなだけ殺せるゲームが本気で好きですし


「ぼくなつ」シリーズのような戦闘がない平和なゲームも本気で好きなんですよね。


ただただ、マップとかを観光気分で眺め歩いたりするのも大好きですし。


最近では、マップの作りこみ=ゲームのクオリティ


てな感じになりつつあります。ってか、もうなってる。


ゲームの作り手側(アマチュアだけどね)から見ても


平和なゲームも残酷なゲームも作ってみたいというのが本音です。



戦うゲームと定義すると、大抵のゲームが当てはまるんですよね。


「マリオ」シリーズもそう、「DQ」も「FF」も。


主人公が掲げる正義の名の下に、武器を振るい敵を殺し、魔王を殺す。


それらの目的を達すると人々から賞賛され


勇者、英雄と呼ばれる。


コレは現実でも同じ気がします。


敵を討ち取れば英雄。見境なければ殺人鬼。


やっていることは同じはずなのにね。



要は演出なんでしょうね。


同じ戦うでも、「マリオ」シリーズと「FF」シリーズはだいぶ違います。



桜井さんも言っていましたが


リスクとリターンの関係を表すのに一番適しているのが戦うということなんですよね。



戦いのないゲームとは?


戦いのないゲームを作れたとして


そのゲームは戦いのあるゲームより面白くなるのかどうか。


戦いは人間が持つ闘争本能です。


誰かに勝つと嬉しいもの。誰かに負けると悔しいもの。


ゲームの内容に関わらず、ゲームの対戦でもそれが垣間見れます。



ゲームについてもう少し考えてみたくなりました。


やっぱりプロのクリエーターの言葉は為になりますね。

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