2012年1月27日金曜日

デジタル社会だからこそ、アナログ的思考を。

ネットやゲーム、その他様々な物がデジタル化しつつあり


現代はデジタル社会と言っても過言ではない時代になっている。


こんな時代だからこそ、アナログ的思考が非常に重要であると感じた。


きっかけは、横井軍平さん。


久々に観てみたけど、ハッとさせるものがある。


本当に尊敬できる人だと改めて感じた。


※横井軍平さん特集は、4:04辺りから。



ポイントとなるのは、デジタル化は進んでいるものの


結局の所、それらを扱うのは人間だということ。


人間は当然ながらアナログな生き物で、どんな時代が来ようともそれは変わらない。


今の時代、便利な物、デジタルな物を全て失った時


一体、人間に何ができるのか。


または、今ほど便利な物で溢れていなかった時代のことを考えた時


既存の物を除いて、どうすればその時代を良くできるか


その時代の人間の需要は何なのか。


そもそも、人間の根本的な需要、欲求とは何なのか。



現代のような、便利で恵まれたデジタル社会の中で生きていると


なかなかそういったことを考え、思いつくのは難しいかもしれない。


それでも、創造や想像の本質とは、そういうことなんだろうと思ったりする。



横井軍平さんに興味がある方は、↓もどうぞ。


『横井軍平展 -ゲームの神様と呼ばれた男-』


2012年1月24日火曜日

なかよしテレビから学ぶ世界の見方

フジテレビで放送中の「なかよしテレビ」


日本、中国、韓国が様々な自国自慢をするバラエティ番組。


時には評価し、時には批判することで


お互いの国を、より理解し認め合うことが目的。



この番組の良い所は、政治や歴史ではなく


文化やエンターテインメントに重きを置いているところ。


やっぱり、他国と仲良くするには文化交流が一番だと思う。


たま~に、政治や歴史の話も出てくるけど


基本的にはバラエティということで、司会の上田が上手いこと雰囲気を和ますのが良い。



自分は最近この番組を知ったんだけど、なかなか面白くて好きだったりする。


だけど、ネット上での評判はあまり良くないようで。


まあ、当然といえば当然かなという気もする。


なぜなら、ネット上には当たり前のように


“チョン”やら“シナ”などという言葉を使う人間が多い。


国の歴史や、民度、習慣など様々なことが理由で中国、韓国を嫌っているらしい。


俺には全く理解できないが。



自分がこの番組を楽しめる理由としていくつかの理由がある。


まず、中国や韓国が嫌いではないため。


または、中国や韓国を嫌いにはなりたくないとも言える。


その方が、この世界を楽しむことができると思っているから。



自分は日本はもちろん、中国や韓国などの近隣諸国や


アメリカやイギリスなどの欧米諸国の文化にとても興味がある。


俺のプロフィールを見てもらえば分かると思うけど


「世界ふしぎ発見」や「世界ふれあい街歩き」、「世界まる見え」などのような


世界の情報を扱っている番組が好きで、この「なかよしテレビ」もその中の一つになった。


文化というものは、人間が創り出す最も尊い財産であり


最も価値のある概念だと思っている。


人が集まるところには、必ず文化が生まれる。


個人的には、歴史よりも文化の方が遥かに重要で価値があると思っている。


そんな、価値のある文化をこういった番組で知ることができるのは何よりも嬉しい。


前に「ネットは世界を支配するか。」という日記でも書いたけど


今までは実際に各国、各地へと足を運ばなければ見ることができなかった風景や


知ることができなかった知識などをメディアを通じて


得ることができるのはすごいことだと思っている。



所詮、人種や国籍、民族の違いはあっても同じ人間には違いはないし


仮に自分に対して敵意を持っている人間がいたとしても


それは個人の問題であって、全体ではないケースがほとんどだと思っている。


国と人間は切り離して考えるべきで


政治や歴史とメディアやエンターテインメントも切り離して考えるべき。


この番組の趣旨の通り、お互いの長所や短所を全て認め合うことが何よりも大切。


好きになれとは言っていないし、無理な人には無理だろう。


だけど、認め合うことくらいはできるはず。


それすらできないというのであれば、人間失格と断言しても良い。


人間ではなく、知能を持った“ヒト”という、ただの動物に成り下がることになる。



人間とは、大げさに言えば文化の創造主だ。


だからこそ尊く感じるし、敬意を持って接する価値がある存在だと思っている。


もっと世界を広く見よう。もっとこの世界を楽しもう。


自分たちが思っているよりも、この世界はずっと大きな魅力を秘めている。


偏見や意地は捨てて、もっと素直に世界を見てみよう。


その方がずっと、人生が楽しくなる気がするんだけどね。

2012年1月17日火曜日

海外サイトが選ぶ「ジャンルを定義付けたゲームシリーズ」TOP10

海外サイトが選ぶ「ジャンルを定義付けたゲームシリーズ」TOP10

https://www.inside-games.jp/article/2012/01/17/53959.html



異論なし。


どれもジャンルの礎を築いた偉大な作品だと思う。



“サバイバルホラー”というジャンルに関しては


「バイオハザード」という作品も頭に浮かんだけれど


初代以降は少しずつ違う方向へ行っている印象が強い。



“サンドボックススタイル アクションアドベンチャー”というジャンルは


初めて聞いた名前だな。


“オープンワールド”や、“箱庭”といったジャンルとして考えるのであれば


「シェンムー」の存在が大きいと個人的には思う。


しかし、後の「GTA」シリーズと比較すると


あくまでプロトタイプ、可能性を感じさせた作品で


ジャンルを築いたのとは少し違うかもしれない。


とは言え、偉大な作品であったのは間違いない。


海外での根強い人気や評価の高さがそれを物語っている。



“Sci-Fi FPS”というジャンルも初めて聞いた。


“FPS”というジャンルは昔から馴染みがあるけど。


この“FPS”というジャンルは、「DOOM」の頃から大きな変化がないゲームジャンル。


逆に言えば、とても完成度の高いゲームジャンルということ。


“FPS”というジャンルは、本当に素晴らしいと思う。


海外で人気があるのも頷ける。



“RPG”ではなく“JRPG”というジャンルにしたのは流石だと思う。


言うなれば、“ドラマチックロールプレイングゲーム”という感じか。


世界観やストーリー、キャラクターに重点を置いたRPG。


海外でも一定の人気は保たれているようだ。


しかし日本のゲーム業界は、そろそろ新しいRPGを作るべき。


その可能性を個人的に一番感じたのは、「キングダムハーツ」だ。


よく、ディズニーの世界観とのコラボという部分が注目されるが


あの時代では、“シームレス・リアルタイムアクションRPG”というジャンルにおいて


かなり高い完成度だったと自分は思っている。


もちろん、欠点の多いゲームでもあったが。



何はともあれ、日本のゲーム業界は、もっと頑張らなくてはならない。


「グリー」や「モバゲー」などによる“ソーシャルゲーム”や


海外のゲームに押されているのは、コンシューマーゲーム開発者の多くが


「ゲームとは何か」、「サービスとは何か」、「エンターテインメントとは何か」を


よく理解できていないためだと個人的には思う。


もう今までのようには行かない。


80年代~90年代のような、勢いだけではどうしようもない時代が来た。


ひとまず、日本のゲーム業界は“斬新さ”よりも“面白さ”を優先すべき。


そして“快適さ”も。

2012年1月11日水曜日

自己の確立

『尾崎豊の再評価が不要な理由』

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120111-00000303-newsweek-int



“尾崎豊=反抗”と捉えている時点で、この人は尾崎豊を理解していない。


俺自体も、尾崎豊に詳しいわけではないけど


「卒業」の歌詞を読めば、それは違うと分かるはず。



例えば「卒業」の場合。


自分なりの解釈で解説すると


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いつも心は満たされなかった。


孤独や寂しさを感じていて、友達と遊びあいしゃべり続けることによる刺激で


退屈な心を満足させようとしていた。


強い力だけが必要だと信じ、喧嘩の話で熱くなったり、友達に対して強がったり


時には傷つけたりするようなこともあった。


恋をして、甘い愛の言葉と自分の愛の理想像の追求にだけ心を奪われたこともあった。


生きるために計算高くなれと言われていたけど


自分は人を愛するまっすぐな気持ちを強く信じていた。


だけど、大切なのは何なのか。


生きるためにすることなのか、愛することなのか。


その区別に迷った。



“行儀よくマジメに”なんてくだらないと感じていた。


従うことは負けだと思っていたから。


この支配から卒業するために


信じられない大人たちと争い、逆らい、あがき続け


校舎の窓ガラスを壊してまわった。


時にはうんざりすることもあったけど、それでもそういった日々を過ごした。



今考えてみると、この支配から卒業することで一体何が解るんだろう。


昔はやんちゃしてたな~といった想い出しか残らないのではないか。


人間、みんな悩みを持っていて、子羊のように迷うこともあるとしたら。


そして、先生はそういった、かよわい大人たちの代弁者なのだとしたら


俺たちの怒りの矛先はどこへ向ければいいのか分からない。


じゃあ、一体この先俺を縛り付けるものは何なんだ。


一体何回卒業すれば、本当の自分にたどり着けるんだろう。


この謎が解け、悩みが解消されるのだろう。


誰にも、何にも縛られず、本当の意味で自由になれるのだろう。



自由とは所詮“仕組まれた自由”であり、真の自由ではない。


真の自由とは何なのか。真の自由は存在しないのではないか。


そんなことに、誰も気づかずに


あがいた日々を終え、支配から、闘いから卒業していく。


そういったことに悩むこと、考えることをしなくなる。


「思春期特有の~」で済ませ、いわゆる“大人”になっていく。


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大人に反抗することにより、支配からの卒業をすると書かれているが


同時に、それに対しての疑問を投げかけてもいる。


これは単なる、その時代の社会背景だけではなく、一種の哲学でもあると言える。


言わば、“自立”の曲だろう。


時代云々で済ませてしまう人間は、正直考えが浅いと思う。


不良行為や、暴力的な表現のみが注目されがちだ。


そういった面も含まれているだろうが、尾崎豊の音楽はそうではないと自分は思っている。



この日記では「15の夜」については書かなかったが


「卒業」の歌詞の中にある“あがき続けた”をテーマにした曲であると思っている。


物語的には繋がりがあるようにも思える。


重要なのは、歌詞にある「自由になれた“気がした”」の部分。


自由になれたわけではなく“気がした”だけだ。



「僕が僕であるために」は自己の確立がテーマだ。


人間の弱さや、負の部分を歌いながら、自己の確立を訴えかけている。



現代の若者に、尾崎豊の音楽をくだらないと言い放てるほど


自己の確立、そして視野を広げることができているのだろうか。


正直言って、尾崎豊の音楽を理解できていない時点で、視野は狭いと俺は思う。


好き、または嫌いは別として、認め、理解することが大切。


また、就職の面接において


自分の長所や短所を明確にできない人間が多いと聞く。


大学の就職率の低下の原因は不況だけではなく


自己の向上を怠っていることなのではないかと思う。



批判は結構。


しかし、否定は良しとは言えない。


グローバルな社会になってきたからこそ


自己の確立が重要になってきているのではないかと思う。


でなければ、埋もれてしまうよ。

2012年1月6日金曜日

ネットは世界を支配するか。


人と人との繋がりが希薄になったと言われている昨今。


「核家族」などという言葉も、それを象徴するものの一つ。


それの良し悪しはさておき、今はネットが世界を支配する時代になりつつある。



冒頭で書いた件もあり、コミュニケーションが苦手な人間が増えたが


人間は人との繋がりを欲している。


最近は、その傾向が特に強まっている。


例を挙げれば、TwitterやSNS、ニコニコ動画やYoutubeなどの動画共有サービス。


ネットを介してのゲームなどもそうだ。



直接、人とコミュニケーションをとるのは気が引けるが


ネットを通じてならば気兼ねなく行える。


そういった現代人の心の表れと自分は見ている。



コミュニケーションは恥ずかしくて面倒だ。


だけど、さまざまな体験や感情を他人と共有したい。


そう考えている人間が、世界レベルで多く存在するのだろう。



そういった人間が増えれば増えるほど問題となってくるのは、ネット上での犯罪行為だ。


今や、ネチケットなどという言葉は失われたと言っても過言ではない。


以前は「2ch」などといった、いわゆるアングラ(アンダーグラウンド)なサイトでのみ


危険なやり取りが行われていたように思えるが、今ではネット上全てが無法地帯と言える。


言わば、ネット全体がアングラだ。


他人への罵倒や中傷は当たり前。


差別用語も、まるで一般的な言葉であると錯覚してしまうほど、目にすることが多い。


その対象は世界にまで及ぶ。


人種差別や宗教差別など。


これが現代のネットでは当たり前となってしまっている。


その原因は何かと言えば、敷居が下がりすぎたことだろう。


文字を書き込み、クリックするだけで


誰でも情報を発信することができるようになった。


これは、もはや革命と呼べるレベルだ。



しかし、一方でネットによってもたらされた大きなメリットがある。


それは“情報”である。


上でも書いた通り、ネットは世界レベルにまで広がっている。


それにより、ネットが存在しなかった時代では


各国、各地へと足を運ばなければ見ることができなかった景色や街並み


知ることができなかった文化や習慣。


その他、様々な情報を家にいながら得ることができるようになった。


これは、非常に大きなメリットであると自分は思っている。



これからの世の中が、どう動いていくのかは分からない。


しかし、ネットに支配されるのか


それとも、ネットをうまく活用するのか。


生かすも殺すも人間次第であることには変わらない。


ネットを使えば容易に、気兼ねなく他人とコミュニケーションがとれるが


例えネット上であろうと、相手は人間であるということを忘れてはならない。


現実と同様、相手には敬意を持って接する必要がある。


容易にコミュニケーションをとることができるようになったからこそ


忘れがちではあるが、決して忘れてはならない最も重要なことであると自分は思う。

2012年1月1日日曜日

今年は飛躍の年

明けましておめでとうございます。



2011年を振り返ってみると、やはり良くないことが多く起こった気がします。


世界的にも、個人的にも。


しかし、自分にとってはそれまでと異なり


大きな進歩、成長をし、意識がかなり変わった一年でもありました。


今までも、視野を広く、世界を広く見ようという気持ちは持っていましたが


昨年は、そういった意識が飛躍的に高まったように感じます。


自分の大好きな、日本の文化や歴史を始めとして


世界の文化、民俗に関しての興味がさらに強くなりました。



2012年は、さらに意識を高め、視野を広げ


より、この世界を広く深く楽しもうと思っています。


また、誰かの力に頼らずに、自分の力のみで


何事も成し遂げられるような人間になりたいと思います。



昨年、お世話になった方、ありがとうございました。


今年もよろしくお願いいたします。