『尾崎豊の再評価が不要な理由』
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120111-00000303-newsweek-int
“尾崎豊=反抗”と捉えている時点で、この人は尾崎豊を理解していない。
俺自体も、尾崎豊に詳しいわけではないけど
「卒業」の歌詞を読めば、それは違うと分かるはず。
例えば「卒業」の場合。
自分なりの解釈で解説すると
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いつも心は満たされなかった。
孤独や寂しさを感じていて、友達と遊びあいしゃべり続けることによる刺激で
退屈な心を満足させようとしていた。
強い力だけが必要だと信じ、喧嘩の話で熱くなったり、友達に対して強がったり
時には傷つけたりするようなこともあった。
恋をして、甘い愛の言葉と自分の愛の理想像の追求にだけ心を奪われたこともあった。
生きるために計算高くなれと言われていたけど
自分は人を愛するまっすぐな気持ちを強く信じていた。
だけど、大切なのは何なのか。
生きるためにすることなのか、愛することなのか。
その区別に迷った。
“行儀よくマジメに”なんてくだらないと感じていた。
従うことは負けだと思っていたから。
この支配から卒業するために
信じられない大人たちと争い、逆らい、あがき続け
校舎の窓ガラスを壊してまわった。
時にはうんざりすることもあったけど、それでもそういった日々を過ごした。
今考えてみると、この支配から卒業することで一体何が解るんだろう。
昔はやんちゃしてたな~といった想い出しか残らないのではないか。
人間、みんな悩みを持っていて、子羊のように迷うこともあるとしたら。
そして、先生はそういった、かよわい大人たちの代弁者なのだとしたら
俺たちの怒りの矛先はどこへ向ければいいのか分からない。
じゃあ、一体この先俺を縛り付けるものは何なんだ。
一体何回卒業すれば、本当の自分にたどり着けるんだろう。
この謎が解け、悩みが解消されるのだろう。
誰にも、何にも縛られず、本当の意味で自由になれるのだろう。
自由とは所詮“仕組まれた自由”であり、真の自由ではない。
真の自由とは何なのか。真の自由は存在しないのではないか。
そんなことに、誰も気づかずに
あがいた日々を終え、支配から、闘いから卒業していく。
そういったことに悩むこと、考えることをしなくなる。
「思春期特有の~」で済ませ、いわゆる“大人”になっていく。
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大人に反抗することにより、支配からの卒業をすると書かれているが
同時に、それに対しての疑問を投げかけてもいる。
これは単なる、その時代の社会背景だけではなく、一種の哲学でもあると言える。
言わば、“自立”の曲だろう。
時代云々で済ませてしまう人間は、正直考えが浅いと思う。
不良行為や、暴力的な表現のみが注目されがちだ。
そういった面も含まれているだろうが、尾崎豊の音楽はそうではないと自分は思っている。
この日記では「15の夜」については書かなかったが
「卒業」の歌詞の中にある“あがき続けた”をテーマにした曲であると思っている。
物語的には繋がりがあるようにも思える。
重要なのは、歌詞にある「自由になれた“気がした”」の部分。
自由になれたわけではなく“気がした”だけだ。
「僕が僕であるために」は自己の確立がテーマだ。
人間の弱さや、負の部分を歌いながら、自己の確立を訴えかけている。
現代の若者に、尾崎豊の音楽をくだらないと言い放てるほど
自己の確立、そして視野を広げることができているのだろうか。
正直言って、尾崎豊の音楽を理解できていない時点で、視野は狭いと俺は思う。
好き、または嫌いは別として、認め、理解することが大切。
また、就職の面接において
自分の長所や短所を明確にできない人間が多いと聞く。
大学の就職率の低下の原因は不況だけではなく
自己の向上を怠っていることなのではないかと思う。
批判は結構。
しかし、否定は良しとは言えない。
グローバルな社会になってきたからこそ
自己の確立が重要になってきているのではないかと思う。
でなければ、埋もれてしまうよ。