2019年12月5日木曜日

全面的に支持

「ミス/ミスターコンテストは一切容認されない」 法政大学が「ミスター法政」について声明を発表

https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1912/02/news090.html



まず最初に結論。


なぜ、ダメなのか。


その答えは、評価軸が“容姿”のみ、もしくは“容姿”がベースになっているから。


ダイバーシティ(多様性)を尊重するということは、多様な評価軸で判断すること。


そういった要素がないため、ダメ。


そして、“容姿”というのは先天的なもの


生まれ持ったもので、後から大きく変えることは容易ではない。


身長や、顔のパーツなどは、整形でもしない限り、生まれ持ったままの状態。


つまり、容姿が整っているとされている人は、単に運が良かっただけ。


そういった要素に、優劣をつけるのは倫理的に問題がある。


美しく見せる技術は、生まれ持ったものではなく、努力して得たもので実力だ


と言う人もいるが、そんなのものは+αに過ぎない。


第一、そんなに自信があるのであれば、学外のもっと大きなコンテストに挑戦するべき。


それこそ、ミス・ユニバースとか。


学内でのコンテストなど、何の意味もないと個人的には思う。



レイシズム(人種)、セクシャリズム(性)、エイジズム(年齢)、ルッキズム(容姿)など


差別的な価値観を助長するものだと思う。


実際、近年そういった価値観に傾きつつあるように思える。


人を見たとき、まず容姿。


そんな人間が多くなっているような気がする。


YouTubeのコメントなどを見ても、容姿の話が多いこと。


例えば、ZARDは歌手なのにもかかわらず


動画に投稿されているコメントは、大体容姿に関するもの。


それ以外にも


顔だけではなく、身長やスタイルなどの体形、髪型、化粧なども。



一言で差別と言っても様々で


今回問題になっているのは、ルッキズム。


容姿というのは、基本的には生まれ持ったもの。


容易に変えることは不可能。


では、容易に変えることができるものであれば差別は許されるのか。


もしくは、差別とは言わないのかと言えば、そうではないと思う。


例えば、学歴、職業、収入、住所などは、変えることができる。


では、その特定のカテゴリに属する人間が差別されていることに対し


「差別されたくなければ、変えればいい」


という理屈が、果たして成立するのか。


自分はしないと思っている。


特定のカテゴリに属しているだけで差別されるのは、やはりおかしい。



今回の件は、法政大学はダイバーシティを重視した結果だが


このコンテストは、人格ではなく容姿という評価軸をベースに行われるイベントで


ダイバーシティとは相反するだろうということ。


それを否定したいのであれば


従来の、容姿の整った人間といったイメージからかけ離れた候補者が


グランプリに選ばれたという実績が必要なのではないかと思う。


そういった実績があれば、必ずしも容姿の整った人間が有利というわけではないことが


証明できるし、評価軸が容姿のみではなく、多様なものであると証明できる。


しかし、実際のところ、それはほぼ無理だろう。


なぜなら、この手のコンテストの評価軸は、容姿がベースになっていることは明らか。


従来の、容姿の整った人間といったイメージの候補者がグランプリに選ばれなかったら


「この顔でグランプリ?」


と言う人間は必ず出てくる。


と言うか、実際にそういったコメントをたくさん見てきた。



では、評価軸が多様であるというのはどういうことなのか。


個人的に、ゲームに例えると分かりやすいと思っている。


ゲームとして優れている作品は、一体何で決まるのか。


それは、一言で表すのは不可能だろう。


これは、あくまで個人的な考えだが


自分の、ゲームの評価軸は以下の通り。



■ キャラクター


■ ストーリー


■ 世界観



■ インターフェース


■ 演出


■ キャラクターデザイン


■ グラフィック


■ モーション


■ レベルデザイン



■ SE


■ 音楽


■ 声



■ AI


■ カメラ


■ ゲームバランス


■ システム


■ 自由度


■ スピード感


■ 操作性


■ テンポ感


■ 難易度


■ パフォーマンス


■ ボリューム


■ やりこみ要素


■ ユーザビリティー


■ リプレイ性



自分は、上記の26個の評価軸から、総合的に判断している。


これこそ、多様な評価軸ということだと思う。


今回の件で言えば、容姿に近い評価軸は、恐らくグラフィックだろうが


グラフィックの美しいゲームであれば、本当に優れたゲームと言えるのか?


自分は、そうは思わない。


人間も同様で、容姿というたった一つの評価軸で


一人の人間を評価すること自体が問題だと思う。


容姿を肯定すること自体は良いじゃないかというコメントもあったが


特定の容姿が肯定されるということは、それに相反する容姿は否定されるということ。


実際、そのようにして勝ち残っていくものだ。


容姿というたった一つの評価軸で。



この件に関するコメントで、試験や競技などと同列に語っている人間がいるが


全く別物であり、同列に語るべきではないと思う。


試験や競技は、競争であり、勝ち抜くために努力した後


さらに運が良くなければ勝つことはできない。


今回のコンテストが、そういったものと比較されるのはおかしい。


こんなコンテストよりも


より社会貢献した学生を選出するコンテストの方が、ずっと良いんじゃないかと思う。


学生時代に、どれだけボランティアなどの社会奉仕活動をしてきたかという。


ただでさえ、日本は社会奉仕活動に対して、欧米の先進国と比べて消極的だし


近年は、自己責任論者が増えてきたわけだし。



個人的な意見として言わせてもらえば


容姿が優れているとか、胸が豊かであるとか、身長が高いとか


そういった価値観は、非常に動物的な価値観だと思っている。


進歩的な価値観とはかけ離れた、原始的な価値観だと思ってしまう。


動物も、容姿などで交配する相手を選ぶという。


何も変わらないではないかと思う。


いい加減“進歩”するべきだと思う。

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