いわゆる現代社会を生きる人間たち、特に若い人たちを見ると
なんだかかわいそうに感じることがある。
個人的に、この世代の人たちはとても真面目で協調性を大切にし
様々な物事を楽しもうとしている。
“意識的”に。
日記やツイッターでは、正論や現実的な視点からの主張
正しいことは大好きで、その逆は嫌い。
何の問題もないように思えるかもしれない。
でも、自分にはそれがかわいそうに見えてしまうときがある。
何かに駆り立てられるように、“正しい”ことのみを自ら選び
そうでないと感じたものには容赦がない。
他人とのコミュニケーションを大事にするが
空気やら発言の是非に気を使っているため、どこかビクビクしている。
なるべく、物事を現実的に捉えて、夢を見過ぎないように
また、本人たちが想像するスマートな人間
いわゆる“デキる”人間を目指す。
そんな彼らを見ていると、どこか無機質で冷めていて
妙に洗練されすぎているような印象を受ける。
悪い意味で“大人”なんだなと思わされる。
最近、こんな記事を見つけた。
『今の若者は尾崎豊に全く共感しないらしい
「独りよがりで意味不明」「何に怒っているかわからない」』
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1672020.html
これに対してのコメントが自分にとっては意外性のあるものだった。
自分自身、尾崎豊は好きなほうだ。
彼の音楽を聴くと、やはり胸が熱くなる。
尾崎豊の熱のこもった歌と歌詞とメロディー
そしてパフォーマンスがそうさせているんだろう。
また、安易(と本人たちは思っている)な流行や最近の邦楽
特にJ-POPなどを冷ややかな目で見ているあたりからも上で書いたような印象を受ける。
また、民族や人種に対する偏見を始めとした、何らかの属性に対しての毛嫌いや否定。
今まで印象に残った様を書いてきたが
率直に言えば、クソ真面目で心にゆとりがないということなのかなと思う。
心にゆとりがないから、多くの物事を許容できない。
知識などの理論を頭に貯め込むだけ貯め込み、頭でっかちになっている気もする。
心で考え判断するのではなく、頭だけで考え判断している。
しかし、真面目にスマートに、正しい人間を目指してはいるものの
高学歴でも就職が難しい時代で、なかなか大人たちに評価されず認められない。
色々な悩みを抱えながら生きているのだろう。
結局は、それらは彼らの思想でしかなく、子供が背伸びをしている
大人ぶっているのと大差はないのではないか。
あらゆる意味でかわいそうな世代だと感じる。
とは言うものの、自分も同じ世代だったりもする。
人間は人間らしく、自分勝手に、わがままに生きればいいじゃないか。
他人のために自分を殺して何になるんだ。
そういう生き方をしつつも、心にゆとりを持ち広い視野を持ち
良いことは良いし、悪いことは悪いの精神で。
しかし、否定はしない。
負の感情なんて、本来は少なければ少ないほどいいものだ。
どんな善人でも、どんな悪人でもそれぞれ歩んできた道があるし
たった一つの物事で、それらを否定する権利は誰にもない。
そもそも善と悪の違いなんて曖昧なもの。
彼、または彼女の一体何を知っているんだ。
それは、全てにおいて言えること。
人種や民族、性別や血液型、出身地や環境、宗教や習慣。
それぞれ異なるだろうが、それらを否定する権利は誰にもない。
全知全能の神でないかぎり、それらを否定する権利はない。
自分はそう感じる。
本音を言えば、自分は自分を失いたくない。
自分らしさを失いたくない。
様々なことに興味を持てる自分や
様々な視点で物事を見ることができる自分。
様々な物事を理解しようとする、理解したいとする自分。
もっと広く世界を見たいと感じている自分や
この世界の歴史や謎を知りたいと感じている自分。
他人と違うことが好きなのではなくて
そういう自分が、自分は好きだ。